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2011年、東ソー南陽事業所。部長・課長・係長の3人が、DCSのトレンドを見て塔頂温度の異常に気づいていました。VCMが混入している可能性まで想定していた。
それでも、何もしませんでした。事故調査報告書の記述はこうです。
「1,1-EDC生成の異常反応に関する知識がなかったため、特別な作業は必要ないと考え」
計器は正しく動いていました。人も、規定どおり見ていました。足りなかったのは、その数字を危険と読むための知識でした。
この記事の要点
- 異常に気づく力と、それを危険と読む力は別物
- 失われるのは「操作方法(Know-How)」ではなく「なぜその値なのか(Know-Why)」
- 知識は世代交代・暫定運用・使われないことの3経路で消える
- 最も危険なのはP&IDが現物と違うこと。次のHAZOPが嘘の図面の上で行われる
- 対策は「図面の更新を変更管理の完了条件にする」など、仕組みに埋め込むこと
1. プロセス知識とは、何を指すのか
RBPSでは、要素6として「プロセス知識管理」が置かれています。ここでいう知識は、大きく3層に分かれます。
| 層 | 中身 | 失われるとどうなるか |
| 物質の知識 | 反応危険性、分解温度、混触、副生成物、残渣の性状 | 異常値を見ても、危険と読めない |
| 設計の知識 | P&ID、設計根拠、管理値の由来、安全弁の設計ベース | 変更してよい範囲が分からなくなる |
| 運転の知識 | 手順とその理由、過去のトラブル、非定常時の判断 | 手順が「意味の分からない制約」になる |
東ソーで足りなかったのは1層目、三井化学で足りなかったのは2層目、日本触媒で足りなかったのは3層目でした。どの層が抜けても、事故になります。
2. 最も危険なのは、図面が現物と違うこと
プロセス知識管理の中核は、P&IDです。理由は単純で、リスクアセスメントも変更管理も、図面を前提に行われるからです。
CCPSは、多くの設備においてリスク分析あるいは変更管理レビューを行う直前に、プロセス知識が正確で網羅されているかをレビューすることを重要視しているとしています。
図面が古いと、何が起きるか。
次のHAZOPは、存在しない配管について議論し、実在する配管を見落とします。参加者がどれだけ優秀でも、机の上にあるものしか検討できません。
そして「HAZOPを実施した」という記録だけが残ります。
1974年のフリックスボローは、この問題の原型です。5号反応器を外して仮設配管でつないだ工事に、正規の設計図がありませんでした。作業場の床にチョークで描いたとされています。
図面が古くなる仕組み
誰も悪意で放置していません。こういう順序で古くなります。
- 工事をする。現場は動く。図面の更新は後回しになる
- 更新は「手が空いたら」。手は空かない
- 未反映が積み上がる。どこが違うのか、誰も把握できなくなる
- 現場は図面を信用しなくなり、「実際は違うから現物を見て」が常識になる
対策は、「頑張って更新する」ではありません。図面の更新を変更管理の完了条件にすることです。図面が更新されるまで、その変更は「完了」にしない。工事完了と変更完了を分けて管理します。
3. Know-How は残るが、Know-Why は消える
東ソーの事故調査報告書は、背景の課題として次を提言しています。
「プラントの設計思想や運転条件設定の背景にある根拠、所謂 Know-Why を納得感をもって定着させるための教育や、非定常状態時での対応に関する教育プログラム、さらに教育後の各人の理解度の確認方法を見直すべきである」
この2つを区別すると、問題がはっきりします。
| Know-How | Know-Why | |
| 内容 | どう操作するか | なぜその値・その順序なのか |
| どこにあるか | 手順書に書いてある | 書かれていないことが多い |
| 伝わり方 | 文書で伝わる | 人から人へ、口頭で伝わる |
| 失われ方 | 失われにくい | 異動・退職で一度に消える |
| ないとどうなるか | 操作できない | 異常時に判断できない/手順を「改善」してしまう |
「なぜ塔頂温度を−24℃に保つのか」を知らなければ、38℃という数字はただの異常値です。知っていれば、そこから何が起きるかまで考えが及びます。
そして、Know-Why が欠けたときのもうひとつの症状が、手順の「改善」です。1999年のJCO臨界事故では、臨界を防いでいたのが「容器の形」だという理由が現場に伝わっておらず、より扱いやすい容器へ置き換えるという判断が通ってしまいました。
理由を知らなければ、手順は改善の対象になります。現場の改善意欲が高いほど、危険な方向へ働くことすらあります。
4. 知識が消える3つの経路
経路1:人が動く
東ソーの報告書は、率直にこう書いています。
「近年、南陽事業所では、世代交代や新プラント建設に伴う熟練運転員、スタッフの他部門への転出によって、製造現場での知識・経験が低下傾向となっている」
注目すべきは「新プラント建設に伴う」という部分です。新しい設備を建てれば、経験者はそちらへ行きます。既存プラントの知識は、成長している会社ほど薄くなる。
デンカの報告書も、同じ問題を別の角度から書いています。
「自社のインシデント、および他社の類似事故発生から、20〜30年が経過している。当時の技術者はこの情報を知っていたが、次の世代にまで継承できていなかった」
そして委員会は、これを一社の問題にしていません。「技術・技能継承は、デンカに限らず多くの化学企業に『共通する課題』である」。
経路2:暫定運用が、文書にならない
2012年の日本触媒姫路では、タンクの運用ルールが変更されていました。しかし報告書によれば――
「『V-3138基本管理方法』は恒久的な事柄であるが運転引継システムによる通知までに止まり、運転マニュアル等には反映されていない」
恒久的なルールが、引継連絡と現場の貼り紙だけで運用されていました。
同じことが、2012年の三井化学岩国大竹でも起きています。インターロックを解除すると窒素が止まる――この重要な連動が、マニュアルにも教育資料にも記載されていませんでした。
引継ノート、掲示、メール、口頭。これらは伝達手段であって、知識の保管場所ではありません。「引継ぎで伝えたこと」のうち、恒久的なものを定期的にマニュアルへ吸い上げる仕組みがないと、知識は流れて消えます。
経路3:使われないうちに、忘れられる
これが最も静かな消え方です。日本触媒の報告書から。
「天板リサイクルのバルブを操作する機会はほとんどなかったため、運転員の認識から天板リサイクルの必要性は薄れた」
ルールはありました。貼り紙もありました。ただ、何年も使う場面がなかった。そして必要になった日に、実行されませんでした。
これはJCOにも共通します。事故につながった作業は頻度の低い特殊な作業でした。めったにやらない作業ほど、手順が体に入っておらず、教育が後回しにされます。
5. 何を、どう残すか
「技術伝承が大事」で終わらせないために、仕組みに落とせるものを挙げます。
| 対象 | やること |
| P&ID | 図面更新を変更管理の完了条件にする。工事完了と変更完了を分ける。定期的に現物照合する |
| 運転管理値 | 手順書に「なぜこの値か」の欄を作る。上下限それぞれに理由を書く |
| 安全機能の連動 | 「これを切ると、他に何が止まるか」を文書化する。三井化学の教訓 |
| 暫定運用 | 期限を設ける。恒久化するならマニュアルへ移す。引継連絡のままにしない |
| 稀な作業 | 年に数回以下の作業をリスト化し、実施前に教育と手順確認を行う |
| 物質の危険性 | 装置内に溜まる副生成物・残渣まで含めて評価する。SDSに載っていない物質と向き合う |
| 過去のトラブル | インシデント情報を層別し、保安事故につながり得るものはリスクアセスメントを行う |
最後の項目は、デンカの再発防止対策そのものです。同社は他社事故情報についても、本社の環境保安部門から関連事業所へ伝え、各事業所がリスクアセスメントを行って対策を講じるという流れを提言しています。
そしてもう一点、デンカの対策には「運転状態に関わる変化点の周知」が入っています。
「化学プラントで副生物や設備故障増加などの運転状態が正常状態から外れていないか(変化)について、“いつもと違う”と感じたら、月例の事業所長報告会等で審議し、事業所内関係者に周知する」
デンカの事故では、定修以降スケールが増えていたのに、運転条件が基準値内だったため深く追究されませんでした。「管理値の中だが、いつもと違う」を扱う場所を作る、という対策です。
6. 自分の職場で確かめる7つのこと
- 最後にP&IDを現物照合したのは、いつですか。未反映の変更は何件ありますか
- 図面の更新は、変更管理の完了条件になっていますか。工事完了で閉じていませんか
- この管理値は、なぜその値ですか。運転員が説明できますか。手順書に書いてありますか
- インターロックを切ると、他に何が止まりますか。それは文書になっていますか
- 引継連絡だけで運用されている恒久ルールは、ありませんか。
- 年に数回しかない作業を、リストにしていますか。実施前の教育はありますか
- 「管理値内だが、いつもと違う」を報告する場がありますか。
3番目は、その場で試せます。手近な管理値を1つ選んで、若手に「なぜこの値か」と聞いてみてください。答えられなければ、それは組織の側の課題です。
まとめ
- 異常に気づく力と危険と読む力は別。後者は物質と設計の知識に支えられる
- 最も危険なのはP&IDが現物と違うこと。次のHAZOPが嘘の図面の上で行われる
- 失われるのは Know-How ではなくKnow-Why。理由を知らない手順は「改善」される
- 知識は人の異動・暫定運用の未文書化・使われないことの3経路で消える
- 対策は精神論ではなく仕組み。図面更新を変更管理の完了条件にするのが最も効く
プロセス知識管理は、地味な要素です。しかしここが崩れると、リスクアセスメントも変更管理も、砂の上に建つことになります。
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参考文献
- Center for Chemical Process Safety / AIChE 著、化学工学会 SCE・Net 安全研究会 訳『若い技術者のためのプロセス安全入門』丸善出版、2018年(RBPS 要素6「プロセス知識管理」)
Amazonで見る - 安全工学会 監修『実践・安全工学シリーズ3「安全マネジメントの基礎」』化学工業日報社、2013年、第2章「プラントの安全管理と教育訓練」
Amazonで見る - 東ソー株式会社 南陽事業所 第二塩化ビニルモノマー製造施設 爆発火災事故調査対策委員会 報告書(2012年6月、PDF) ※Know-Why の伝承、人材の流出
- 株式会社日本触媒 姫路製造所 アクリル酸製造施設 爆発・火災事故 調査報告書(2013年3月、PDF) ※管理方法のマニュアル未反映
- デンカ株式会社青海工場 事故調査 最終報告書(2024年1月11日、PDF) ※技術・技能継承、変化点の周知
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