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安全文化とは何か?保安力=安全基盤×安全文化で考える、劣化のサインと現場でできること

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事故報告書の最後には、たいてい「安全文化の醸成」と書かれています。ところが、これほど頻繁に使われながら、これほど中身が曖昧なまま使われる言葉も珍しい。

「安全文化を高めよう」と言われて、明日から何をすればいいのか。標語を貼るのか。朝礼を増やすのか。

実は日本には、この曖昧さに正面から取り組んだ枠組みがあります。安全工学会が経済産業省の委託を受けて体系化した「保安力」です。保安力は安全基盤 × 安全文化と定義され、それぞれに具体的な評価項目が置かれています。

この記事では、保安力の考え方を整理したうえで、安全文化が劣化していくときに現場に現れる具体的なサインを解説します。

この記事の結論

  • 保安力 = 安全基盤 × 安全文化。足し算ではなく掛け算
  • 安全基盤は「仕組み」(評価10項目)、安全文化は仕組みを動かす「人と組織」(評価8要素)
  • 制度が立派でも、動かす側が空洞なら掛け算の答えはゼロに近づく
  • 安全文化の劣化は「形骸化」という形で現れる。KY、教育訓練、ヒヤリハット報告の中身を見る

1. なぜ今「安全文化」なのか

産業界はこれまで、安全確保のために次々と新しい考え方を導入してきました。『実践・安全工学シリーズ3』は、その歴史を3段階で整理しています。

段階導入したもの結果
第1段階設備・機器の改善/基準・マニュアルの完備一定のリスク低減効果。しかし限界が生じた
第2段階リスク管理手法(HAZOP・LOPA・QRAなど)効果は大きかった。しかしこれにも限界が生じた
第3段階安全文化従来のものに加えて導入することが重要と考えられるようになった

重要なのは、安全文化が設備改善やリスク管理の「代わり」ではないということです。それらをやり尽くしてなお残る領域に対して、「加えて」導入するものです。

行政が動いた経緯

この流れは、日本では行政の動きと連動しています。

  • 経済産業省は平成15年に連続して発生した産業事故を重視し、産業事故対応会議を設置。事故の背景要因として人的要因・設備的要因・経営による安全保安を取り上げ、経営トップの役割、人的要因への安全対策、設備・部品のリスク管理、事故情報の共有を指摘した
  • 続いて研究会「安全文化の向上を目指す産業保安行政のあり方について」を発足。産業保安規制は自主保安を原則としており、事業者は高い安全文化を醸成して独自の保安確保に取り組む必要があるとした
  • 平成20〜22年度、経済産業省は「ヒューマン・ファクターを考慮した事業者の保安力評価に関する調査研究」を安全工学会に委託。ここで保安力の枠組みが整理された

つまり安全文化は、精神論として持ち出されたのではなく、「自主保安を原則とする以上、事業者側に文化がなければ制度が機能しない」という現実的な認識から出てきたものです。

2. 保安力とは何か ― 安全基盤 × 安全文化

安全工学会の定義はこうです。

事業所の安全を確保・向上するには、安全の基盤となる仕組みである安全基盤を整備するとともに、その安全基盤が十分な機能を発現でき、また安全基盤を補強できるような事業所における安全文化が重要である。

この両者からなるものが保安力である。

言い換えると、こうなります。

  • 安全基盤= 安全を確保するための仕組み(設計、運転、保全、工事、変更管理、リスクアセスメント、教育…)
  • 安全文化= その仕組みを活性化し、補強する人間行動・組織活動・事業所環境

安全基盤だけあっても、それを本気で回す人と組織がなければ機能しません。逆に、意識が高くても仕組みがなければ属人的な安全にとどまります。両方が要るというのが保安力の考え方です。

3. 安全基盤 ― 仕組みの10項目

安全基盤は、プロセス安全管理をコアとして、人・組織、設備、技術、マネジメントの仕組みを体系化したものです。一次資料はその要点をこう説明しています。

プラント安全基盤情報を基にした設計、運転、保全、工事の一連の流れのなかで、各部門がその役割を適切に果たすことであり、また、変更管理が適切に行われ、プロセスリスクアセスメントが有効に活用され、危機管理としての災害・事故の想定と対応が明確化され、また、それらのベースとなる教育が適切に行われるようなプロセス安全管理が重要である。

安全基盤の項目問われること
プロセス安全管理全体を束ねる枠組みが機能しているか
プラント安全基盤情報P&ID・設計根拠・物性情報が現物と一致しているか
設計本質安全・多重防護が設計に織り込まれているか
運転手順が実態に合い、守られているか
保全検査計画とその実行、健全性の維持
工事施工品質、協力会社の管理
変更管理変更が審査を通っているか
プロセスリスクアセスメントHAZOP・LOPAが有効に「活用」されているか
危機管理災害・事故の想定と対応が明確化されているか
教育上記すべてのベースとなる教育が適切に行われているか

項目名は『実践・安全工学シリーズ3』図1-4および本文の記述にもとづく整理です。正式な評価項目・評価指標の詳細は、安全工学会の保安力評価の解説資料を参照してください。

ここで注目したいのは、変更管理が単独の項目として立っていることです。当ブログで解説した重大事故の多くが、この項目の破綻で説明できます。

4. 安全文化 ― 8つの要素

安全文化は、安全基盤を活性化・補強する人間行動、組織活動、事業所環境のベースとなるもので、8つの要素から構成されます。

要素内容
トップマネジメント組織統率安全理念の明確化と周知によるリーダーシップ。トップマネジメントにおいては、これが最も重要とされる
マネジメント資源管理安全化への取組を効果的に行える環境(人・予算・時間)を用意する
マネジメント作業管理業務のさせ方が安全化の取組と両立しているか
現場動機付け安全の重要性を理解し、取り組もうと思えるか
現場危険認識自分の職場の危険を、具体的に認識できているか
現場学習伝承過去の失敗と技能が次の世代に渡っているか
全層積極関与トップから現場まで、安全化の取組に自ら関わっているか
全層相互理解組織内の縦・横、そして事業所外とのコミュニケーション

この8要素の並びを見ると、安全文化が「現場の意識の問題」ではないことがはっきりします。8つのうち3つはトップとマネジメントの責任範囲であり、しかも一次資料は、トップマネジメントにおいては「組織統率としての、安全理念の明確化と周知によるリーダーシップ」が最も重要であると述べています。

「うちは現場の安全意識が低くて」という嘆きは、この枠組みでは診断結果ではなく、診断を放棄した言葉です。

5. なぜ足し算ではなく「掛け算」なのか

一次資料は、保安力の評価方法について「今後さらに検討を要する」としつつ、次のように述べています。

それぞれの概念から見て、保安力は安全基盤 × 安全文化と考えるのが妥当と思われる。

この「×」には実務上の重い意味があります。

安全基盤安全文化保安力現場の姿
高い高い高い仕組みが実際に回っている
高い低い低い手順書も帳票も完備。だが誰も中身を見ていない
低い高い低い熱意はある。だが属人的で、担当が変われば消える
低い低い極めて低い事故が起きるまで問題が見えない

特に危ないのが2行目です。制度は立派なのに文化が空洞という状態は、外から見ると優良企業に見えます。監査も通ります。しかし掛け算の答えは低いままです。

三井化学岩国大竹の事故では、インターロックも安全計装も設計されていました。問題は「解除してよい条件がマニュアルに書かれていなかった」こと、そして解除が組織的に問い直されなかったことです。基盤はあり、文化が追いついていなかった典型例といえます。

6. 安全文化が劣化しているサイン

安全文化は、ある日突然壊れるものではありません。「形は残ったまま、中身が抜ける」という形で静かに進みます。『実践・安全工学シリーズ3』が現場への問いかけとして挙げている項目は、そのままチェックリストとして使えます。

劣化のサイン何が起きているか
形だけのKYになっていないか毎日同じ項目が読み上げられ、危険認識が更新されていない
教育訓練がマンネリ化していないか受講記録は残るが、行動が変わらない
過去の失敗事例が伝わっているか事故は記録されたが、次の世代に届いていない
暗黙知をどう伝えているかベテランの「なんとなく嫌な感じ」が言語化されずに退職とともに消える
考える運転員を育てているか手順どおりに動く人は育つが、手順にない事態で止まる
現場のヒヤリやミスオペを把握しているか報告が上がらない。上げると叱られる空気がある
「人は時間がたてば育つ」と思っていないかOJTが放置と同義になっている
「やってはいけないこと」を徹底的に伝えているかやり方は教えるが、禁忌の理由を教えていない

どれも「制度がない」ではなく「制度はあるが中身がない」という指摘であることに注目してください。安全文化の劣化とは、そういう現象です。

最も分かりやすい指標:ヒヤリハットが上がってくるか

実務でひとつだけ指標を選ぶなら、ヒヤリハット・ミスオペの報告件数と質を見ることをおすすめします。

報告件数が減っているとき、可能性は2つしかありません。本当に安全になったか、報告されなくなったかです。そして後者のほうが圧倒的に多い。報告すると叱られる、報告しても何も変わらない、報告する時間がない──このいずれかが起きると、組織は自分の危険が見えなくなります。

7. 明日からできること

安全文化は標語では変わりません。8要素のうち、現場の技術者が動かせるところから手をつけます。

  • 危険認識を更新する。KYの項目を、自分の設備で実際に起きたトラブルと過去事故に置き換える。「挟まれ・転倒」だけで終わらせない
  • 学習伝承を仕組みにする。ベテランの判断根拠を聞き取り、手順書の「なぜ」の欄に書く。暗黙知は放っておくと必ず消える
  • ヒヤリハットの返し方を変える。報告に対して「対応しました」を必ず返す。返答のない報告制度は、数か月で止まる
  • 相互理解の場を作る。運転・保全・技術が同じテーブルでHAZOPやトラブル検討をやる。縦割りは事故の温床になる
  • 組織統率を求める。トップの安全理念が現場の言葉に翻訳されていないなら、それを翻訳して掲げるのは管理職の仕事だと認識する

そして、安全基盤の10項目のうち自分の担当がどれかを言えるようにすること。設計なのか、保全なのか、変更管理なのか。自分の持ち場が体系のどこにあるかが分かると、安全活動は「やらされるもの」から「自分の仕事の一部」に変わります。

まとめ

  • 保安力 = 安全基盤 × 安全文化。安全工学会が経済産業省の委託研究で体系化した枠組み
  • 安全基盤は10項目(プロセス安全管理をコアに、情報・設計・運転・保全・工事・変更管理・リスクアセスメント・危機管理・教育)
  • 安全文化は8要素(組織統率・資源管理・作業管理・動機付け・危険認識・学習伝承・積極関与・相互理解)。トップマネジメントの領域では組織統率が最も重要とされる
  • 掛け算なので、制度が立派でも文化が空洞なら保安力は上がらない
  • 劣化は「形骸化」として現れる。KY・教育訓練・ヒヤリハット報告の中身を見る

安全文化という言葉を、精神論のまま使わないこと。8つの要素に分解し、どれが弱いのかを名指しできること。それが、この言葉を実務で使うための最低条件です。

参考文献

  • 安全工学会 監修、新井充・佐藤吉信・高木伸夫・野口和彦・若倉正英 編『実践・安全工学シリーズ3「安全マネジメントの基礎」』化学工業日報社、2013年、第1章「21世紀の産業安全と安全工学の役割」3節「21世紀の産業安全」pp.7-14、第2章「プラントの安全管理と教育訓練」 Amazonで見る
  • 経済産業省委託・安全工学会「ヒューマン・ファクターを考慮した事業者の保安力評価に関する調査研究」(平成20〜22年度)
  • Center for Chemical Process Safety / AIChE 著、化学工学会 SCE・Net 安全研究会 訳『若い技術者のためのプロセス安全入門』丸善出版、2018年、2.2節「プロセス安全文化」 Amazonで見る